論理・主張の崩壊

<2017/3/20投稿・2021/7/5一部語句修正>

ブラック企業だの社畜だのという言葉を聞かない日がないくらい、最近はブラック企業が問題視されている。

しかし原因を企業や消費者の側のみに求めるのは無理がある。

 

 

考えてみてほしい。

例えばAさん、Bさん、Cさんの3人の社会人男性(全員30歳)がいるとする。

Aは22歳で大学卒業し以後は正社員。

Bは大学卒業後アルバイトや契約社員を転々とし、夢はそのノウハウを活かした起業。

Cは高校卒業後ヴィジュアル系バンドマン(インディーズ。ライブでの人気はある)。

職に貴賤なしとはわかっていても、BCのような生き方を認めてくれる人が多くないというのが現状だ。

不安定な時代だからこそ安定した職業に就いている人が魅力的に見えるというのもまた、当然なので私はこれを全否定する気はない。

 

 

しかし本当にそれでいいのだろうか?

確かにサラリーマンを中心とした社会は合理的ではある。

しかしそうでない働き方をしたい、またはサラリーマンに向いていない、というマイノリティに対する配慮が欠けている。

マイノリティと言ったが、もしかしたら隠れた多数派、つまりサイレントマジョリティかもしれない。

何故なら、一見画一的に見える職業観(良い学校出てサラリーマンになるのを正解と見なすなど)も自然とそうなったわけではなく、後付けであるからだ。

もしかしたら国民の多くは「多様な働き方を許されて欲しい」と思っているかもしれない。

その証拠に、戦前はサラリーマンは少数派であり、農業や自営業者、そして今日でいうようなフリーランス的な就業者が多かった。

 

 

現在のサラリーマン中心システムは戦後の高度成長期に作られたといえる。

確かに、一国全体で大きくなっている最中に於いては、バラバラに働かれるよりは大組織化・画一化した方がメリットは大きい。

しかし今となっては時代遅れである。

低成長時代では、皆で同じことをしても報われないのは当たり前であり、それについて嘆くよりも新しい働き方にシフトしていくべきだ。

ましてや人工知能が進化していけば、個性の発揮できない人は職を失い、個性を仕事に結びつけられる人のみが仕事にありつける状態となるだろう。

ブルーカラーは昔から機械との競争に晒されてきたが、人工知能はホワイトカラーにとっての脅威となりうる(もちろん、人工知能が普及することにより新たな仕事が沢山生まれるだろうが、これは一旦横に置いて考えるとする)。

 

 

今のサラリーマンの多くは、自分の個性を発揮するというよりは周囲や上司に合わせて仕事をしている。

協調性は大切であるが、度を過ぎている。

そこまでして自分を抑圧して大きなキックバックがあるなら良いのだが、そうとは限らない。

どれだけ我慢しても経営陣の判断次第では簡単に首が飛ぶしこれに対して経営陣は責任を負わない(リストラ社員の面倒は見ない)場合が増えている。

それだけでない。

「正社員になれただけ有り難いと思え」的な風潮すらある。

この風潮が「ノーと言えないサラリーマン」の量産に影響を与えているかもしれない。

こうして、サラリーマンになったら最後、自分の魂を会社に売らなければならない。

サラリーマンが月給の奴隷のような存在になりつつあるにもかかわらず、そのサラリーマンが唯一の正しい働き方のように教え込まれることについて正直違和感しかない。

 

 

経営者達はかつての日本的な社長像ではなく、アメリカ型のドライな判断する人が増えている。

しかし彼らは社員に対しては相変わらず日本的な忠誠を要求する。

無理がある。

と同時に、こうしたモデルの正当化も無理がある。

経営者の考えが変わるのは時代への適応なので仕方ない。

ただ、そうであれば労働者側にも自由を増やしてくれても良いはずだ。

使う側がアメリカ的なやりかたするなら、働く側もアメリカ的なドライな働き方で良いだろう(私はアメリカが良いと言っているわけではなく、あくまで例。企業や社会のダブルスタンダードと欺瞞が気に食わないと言いたいだけだ)。

そこは両者揃えるべきだし、そもそもサラリーマン以外の生き方に対する寛容性も重要といえる。

そうでないと、経営者からすれば「正社員という売り文句さえあれば勝手に働き手が集まってくる」状態がキープでき、ブラック企業問題は放置されてしまう(労働者は労働市場という市場に属すので、一般的には買い手市場のときは立場が極端に弱い)。

本当にブラック企業を撲滅したいのであれば、経営陣を叩くやりかたではなく、日本社会に於ける労働スタイルのダイバーシティを認める方が早い。

「サラリーマンやりたければサラリーマンやればよいし起業したい人は起業すれば良い。非正規で掛け持ちして色々な仕事に触れたいならそれもよし」という風潮になれば、企業としてはこれまでのような社員の人間としての尊厳を軽視した経営は出来なくなるだろう。

ただ、働き手の多様化のためには最低賃金の欧州並みへの引き上げや実効性のある同一労働同一賃金ルール、起業しやすい社会にするための法整備などが不可欠となる。

つまり乗り越えるべき課題は幾つもある。

しかし無視できる課題ではない。

 

<2021/7/5追記>

この記事を投稿した後の時期は急速に人手不足が加速し、2019年の消費増税頃までは求人倍率が上がり、企業も従業員確保のため待遇や環境を改善する動きが見られた(不十分ではあったが)。

 

しかし、2020年2月頃からは消費増税の影響の出始めとコロナの影響のダブルパンチで急速に景気後退。同年4〜5月の「厳しい」緊急事態宣言以降の需要喪失も加わり夏頃からは余剰労働力が目立ってきた。

コロナの波は何度も来ており、需要創出も容易ではなく、不況が不況を呼ぶ悪循環がみられる。

10月の最賃がコロナ不況を理由にほぼ据え置かれたことも、今年になっても止まらない格差拡大を引き起こしており、底辺層の賃金が上がらず、時間減も相俟って収入減少と生活苦を広げてしまった。

今年10月以降の最賃は議論中とのことだが、企業の都合やコロナ不況を理由に再び昨年のようなことになれば「最賃が上がらない年が続いた」という点で、2000年代前半の再来である。

あの頃も不況を理由に企業の支払い能力という魔法の言葉で最賃据え置きが行われ、元々加速していた非正規雇用拡大との両方の影響で労働者の平均月収が転げ落ちていった。そしてそのことが深刻なデフレを更に深刻化させ、不況と月収低下の悪循環に陥った。

同じ過ちをおかしてはならない。

国ごとの状況が違うとはいえ、コロナ以降全世界的に不況となる中、海外は最賃をしっかり上げるのが主力だ。潜在成長力が違うという言葉もあるだろうが、かといって日本が最賃据え置き→貧困拡大とデフレスパイラルになってよい理由にはならない。

 

かつてのデフレ期の2005年頃、出生率がかなり低下したが、昨年の新生児数の少なさも同様に危険信号と見るべきだ。少子化は税金ばかり上がる(将来の支え手が減るため)のに平均の賃金が下がり(市場が総じて縮小し経済が衰退するため)更なる少子化を招く悪循環型社会の原因になるし日本もその道に入ってから既に結構な年数が経つ。また、いくら税金上げても高齢化率の関係で金無し自治体が増えることから学校統廃合も加速する。

2016年にスタートした義務教育学校の制度も表向きは小中ギャップ解消だが、実態を見る限りでは「小中の一貫にかこつけた体のいい学校リストラ(小学校同士や中学校同士の統廃合に比べ効率的かつダイナミックにまとめられる)」「現状の中学校の諸問題を覆い隠すための道具(中学校は生徒指導の質や昔から続く先輩後輩上下関係文化の温存など何かと問題が多いがそれを話題にすらさせず中学校の文化に小学校を合わせさせたいのではと見える)」が隠された真意ではないか?

従来のように小学校同士や中学校同士でまとめた方がショックは少ないし、もし中1になったときのギャップがというなら中学校の学校文化自体を改めるべきだ。中学校基準で小学校がキツくなっているのが最近の小学校の多くで見られるし、気になる。中学校そのままで小学校は4〜6年をキツくしてきた(児童に要求するスキルが全体的に高度化したり自由が減った)結果、従来は中学校から急増した学校嫌いが今や小学校後半から急増するようになり低年齢化した。6年生ともなれば荒れているところも多い。これをギャップの解消と言ってはいけない

普通の小学校でさえ小中一貫教育の名の下にこうした厳しさが広がっているのだから、ましてや9年間の一貫校にして5年生からは中学生と一緒の建物で50分授業受けさせて業間休み廃止など「中学0年生」のような扱いをするのは論外である。生活空間が中学生と揃うことで、普通の小学校であれば有った「小学生ならではのある程度自由な生活を送りつつも下級生の面倒を見る上級生としての誇り」を失い「5年生は小学生でも中学生でもない半端者かつ中学生から見た実質最下級生で本来中1で経験する縦社会に巻き込まれる」となりうる。

自由も誇りも奪われるのに50分授業や業間廃止や縦社会で息苦しい。必ずしもそうではないのは知っているが、今後更に一貫校が増える中で前述のような悲観シナリオというか悪質な学校が出てくる問題は避けられないだろう。

一貫校のメリットを否定し切るつもりはないが、まずは現状の中学校が抱える諸問題を解消・改善してから一貫校の制度化を始めるべきで、2016年にスタートしたのは時期尚早だった。

では小学校同士の統廃合ならガンガンやって良いのかというと、それも考えものだ。

自転車通学できる中学生と違い小学生は徒歩通学なので、それゆえ徒歩圏内に1校は有るのが原則であった。地方では昭和末期から急速に統廃合が進み、近年は地方でなくとも統廃合が加速している結果、学区が広大になりすぎる問題が起きた。

もちろんそうした地域はスクールバスを出すようになっている。だが、スクールバスが低学年しか対応しておらず高学年は長距離歩かされたり、全学年スクールバス出す場合でも下校時の発車時刻が遅すぎて児童が夕方自由に使える時間が無いなど問題が多い。

私の地元では小学校が今春(2021年)一つ廃校になったが、統合先の小学校の日課を工夫してスクールバスが設定された。統合先の学校は6校時まで行った場合従来15時40分に放課で完全下校が16時であった。スクールバスもその16時で出すことになっていたが、帰宅が16時30分頃になる児童の安全性に問題があり修正された。

今春の統合の際に日課が繰り上がり15時25分放課になった。徒歩組はそこで解散で15時40分完全下校。スクールバスは15時45分に。これにより下校時の安全性は一応は向上した。それでも16時までに帰宅できない児童が沢山居るのでまだ良くないが、改善はされたとしてもいいだろう。世の中には日課そのままで統廃合してスクールバスの時刻の遅さが問題になっている地域が沢山あるだろうし。

 

こうした観点から、学校が無くなるというのは子供にとっては環境の変化と通学負担の増加というダブルの重みをもたらすものであり、小学校が廃校になるとその周辺は一気に衰退するというのも頷ける。新しくその地で子育てしようとはならないだろう。学校は遠いし。地域の核となる存在も無いし。

 

少子化高齢化慢性不況コロナ不況。それが絡み合っているのが今の2021年の日本だし泥沼化している。

税金ばかり上がり賃金上がらないなら自分のことで精一杯だし、子作り以前に結婚すら難しい。結婚しても、将来不安があるなら、そもそもそんな希望を持てない時代に子供が居るのは自分にとっても子供にとってもリスクだと考える人もいるし、リスクと考えなくとも、単純に「そんな世の中で生きさせられる子供が不憫だ。だから産まない」となるケースもある。そうして少子化が更に進み不況と少子化の悪循環から抜け出せない。「上がるのは給料じゃなくて税金ばかり。そのうえ学校が減って子供は朝早く登校し夕方遅く帰宅という重負荷の生活する羽目になるかもしれない」そんな状況で子供が増えろというのも無理がある。待機児童対策で保育園増やすだのも大事かもしれないけれど、そもそも根源的なものにも目を向けてもらいたい。

今現在貧しい若年層が多くて、日本全体として将来的にも若年層の生活が底上げされにくい見通しなら、子供どころではない。ましてや学校まで統廃合が自治体の長期計画で示されるような世にあっては。

 

コロナが終わった後何が待っているか誰も読む事はできない。

だから我々全てが貧困や格差や少子化を自分事として考えるべき時期に来ている。

そうしないと日本に未来は無いだろう。