論理・主張の崩壊

<2017/3/20投稿・2021/7/5一部語句修正>

ブラック企業だの社畜だのという言葉を聞かない日がないくらい、最近はブラック企業が問題視されている。

しかし原因を企業や消費者の側のみに求めるのは無理がある。

 

 

考えてみてほしい。

例えばAさん、Bさん、Cさんの3人の社会人男性(全員30歳)がいるとする。

Aは22歳で大学卒業し以後は正社員。

Bは大学卒業後アルバイトや契約社員を転々とし、夢はそのノウハウを活かした起業。

Cは高校卒業後ヴィジュアル系バンドマン(インディーズ。ライブでの人気はある)。

職に貴賤なしとはわかっていても、BCのような生き方を認めてくれる人が多くないというのが現状だ。

不安定な時代だからこそ安定した職業に就いている人が魅力的に見えるというのもまた、当然なので私はこれを全否定する気はない。

 

 

しかし本当にそれでいいのだろうか?

確かにサラリーマンを中心とした社会は合理的ではある。

しかしそうでない働き方をしたい、またはサラリーマンに向いていない、というマイノリティに対する配慮が欠けている。

マイノリティと言ったが、もしかしたら隠れた多数派、つまりサイレントマジョリティかもしれない。

何故なら、一見画一的に見える職業観(良い学校出てサラリーマンになるのを正解と見なすなど)も自然とそうなったわけではなく、後付けであるからだ。

もしかしたら国民の多くは「多様な働き方を許されて欲しい」と思っているかもしれない。

その証拠に、戦前はサラリーマンは少数派であり、農業や自営業者、そして今日でいうようなフリーランス的な就業者が多かった。

 

 

現在のサラリーマン中心システムは戦後の高度成長期に作られたといえる。

確かに、一国全体で大きくなっている最中に於いては、バラバラに働かれるよりは大組織化・画一化した方がメリットは大きい。

しかし今となっては時代遅れである。

低成長時代では、皆で同じことをしても報われないのは当たり前であり、それについて嘆くよりも新しい働き方にシフトしていくべきだ。

ましてや人工知能が進化していけば、個性の発揮できない人は職を失い、個性を仕事に結びつけられる人のみが仕事にありつける状態となるだろう。

ブルーカラーは昔から機械との競争に晒されてきたが、人工知能はホワイトカラーにとっての脅威となりうる(もちろん、人工知能が普及することにより新たな仕事が沢山生まれるだろうが、これは一旦横に置いて考えるとする)。

 

 

今のサラリーマンの多くは、自分の個性を発揮するというよりは周囲や上司に合わせて仕事をしている。

協調性は大切であるが、度を過ぎている。

そこまでして自分を抑圧して大きなキックバックがあるなら良いのだが、そうとは限らない。

どれだけ我慢しても経営陣の判断次第では簡単に首が飛ぶしこれに対して経営陣は責任を負わない(リストラ社員の面倒は見ない)場合が増えている。

それだけでない。

「正社員になれただけ有り難いと思え」的な風潮すらある。

この風潮が「ノーと言えないサラリーマン」の量産に影響を与えているかもしれない。

こうして、サラリーマンになったら最後、自分の魂を会社に売らなければならない。

サラリーマンが月給の奴隷のような存在になりつつあるにもかかわらず、そのサラリーマンが唯一の正しい働き方のように教え込まれることについて正直違和感しかない。

 

 

経営者達はかつての日本的な社長像ではなく、アメリカ型のドライな判断する人が増えている。

しかし彼らは社員に対しては相変わらず日本的な忠誠を要求する。

無理がある。

と同時に、こうしたモデルの正当化も無理がある。

経営者の考えが変わるのは時代への適応なので仕方ない。

ただ、そうであれば労働者側にも自由を増やしてくれても良いはずだ。

使う側がアメリカ的なやりかたするなら、働く側もアメリカ的なドライな働き方で良いだろう(私はアメリカが良いと言っているわけではなく、あくまで例。企業や社会のダブルスタンダードと欺瞞が気に食わないと言いたいだけだ)。

そこは両者揃えるべきだし、そもそもサラリーマン以外の生き方に対する寛容性も重要といえる。

そうでないと、経営者からすれば「正社員という売り文句さえあれば勝手に働き手が集まってくる」状態がキープでき、ブラック企業問題は放置されてしまう(労働者は労働市場という市場に属すので、一般的には買い手市場のときは立場が極端に弱い)。

本当にブラック企業を撲滅したいのであれば、経営陣を叩くやりかたではなく、日本社会に於ける労働スタイルのダイバーシティを認める方が早い。

「サラリーマンやりたければサラリーマンやればよいし起業したい人は起業すれば良い。非正規で掛け持ちして色々な仕事に触れたいならそれもよし」という風潮になれば、企業としてはこれまでのような社員の人間としての尊厳を軽視した経営は出来なくなるだろう。

ただ、働き手の多様化のためには最低賃金の欧州並みへの引き上げや実効性のある同一労働同一賃金ルール、起業しやすい社会にするための法整備などが不可欠となる。

つまり乗り越えるべき課題は幾つもある。

しかし無視できる課題ではない。

 

<2021/7/5追記>

この記事を投稿した後の時期は急速に人手不足が加速し、2019年の消費増税頃までは求人倍率が上がり、企業も従業員確保のため待遇や環境を改善する動きが見られた(不十分ではあったが)。

 

しかし、2020年2月頃からは消費増税の影響の出始めとコロナの影響のダブルパンチで急速に景気後退。同年4〜5月の「厳しい」緊急事態宣言以降の需要喪失も加わり夏頃からは余剰労働力が目立ってきた。

コロナの波は何度も来ており、需要創出も容易ではなく、不況が不況を呼ぶ悪循環がみられる。

10月の最賃がコロナ不況を理由にほぼ据え置かれたことも、今年になっても止まらない格差拡大を引き起こしており、底辺層の賃金が上がらず、時間減も相俟って収入減少と生活苦を広げてしまった。

今年10月以降の最賃は議論中とのことだが、企業の都合やコロナ不況を理由に再び昨年のようなことになれば「最賃が上がらない年が続いた」という点で、2000年代前半の再来である。

あの頃も不況を理由に企業の支払い能力という魔法の言葉で最賃据え置きが行われ、元々加速していた非正規雇用拡大との両方の影響で労働者の平均月収が転げ落ちていった。そしてそのことが深刻なデフレを更に深刻化させ、不況と月収低下の悪循環に陥った。

同じ過ちをおかしてはならない。

国ごとの状況が違うとはいえ、コロナ以降全世界的に不況となる中、海外は最賃をしっかり上げるのが主力だ。潜在成長力が違うという言葉もあるだろうが、かといって日本が最賃据え置き→貧困拡大とデフレスパイラルになってよい理由にはならない。

 

かつてのデフレ期の2005年頃、出生率がかなり低下したが、昨年の新生児数の少なさも同様に危険信号と見るべきだ。少子化は税金ばかり上がる(将来の支え手が減るため)のに平均の賃金が下がり(市場が総じて縮小し経済が衰退するため)更なる少子化を招く悪循環型社会の原因になるし日本もその道に入ってから既に結構な年数が経つ。また、いくら税金上げても高齢化率の関係で金無し自治体が増えることから学校統廃合も加速する。

2016年にスタートした義務教育学校の制度も表向きは小中ギャップ解消だが、実態を見る限りでは「小中の一貫にかこつけた体のいい学校リストラ(小学校同士や中学校同士の統廃合に比べ効率的かつダイナミックにまとめられる)」「現状の中学校の諸問題を覆い隠すための道具(中学校は生徒指導の質や昔から続く先輩後輩上下関係文化の温存など何かと問題が多いがそれを話題にすらさせず中学校の文化に小学校を合わせさせたいのではと見える)」が隠された真意ではないか?

従来のように小学校同士や中学校同士でまとめた方がショックは少ないし、もし中1になったときのギャップがというなら中学校の学校文化自体を改めるべきだ。中学校基準で小学校がキツくなっているのが最近の小学校の多くで見られるし、気になる。中学校そのままで小学校は4〜6年をキツくしてきた(児童に要求するスキルが全体的に高度化したり自由が減った)結果、従来は中学校から急増した学校嫌いが今や小学校後半から急増するようになり低年齢化した。6年生ともなれば荒れているところも多い。これをギャップの解消と言ってはいけない

普通の小学校でさえ小中一貫教育の名の下にこうした厳しさが広がっているのだから、ましてや9年間の一貫校にして5年生からは中学生と一緒の建物で50分授業受けさせて業間休み廃止など「中学0年生」のような扱いをするのは論外である。生活空間が中学生と揃うことで、普通の小学校であれば有った「小学生ならではのある程度自由な生活を送りつつも下級生の面倒を見る上級生としての誇り」を失い「5年生は小学生でも中学生でもない半端者かつ中学生から見た実質最下級生で本来中1で経験する縦社会に巻き込まれる」となりうる。

自由も誇りも奪われるのに50分授業や業間廃止や縦社会で息苦しい。必ずしもそうではないのは知っているが、今後更に一貫校が増える中で前述のような悲観シナリオというか悪質な学校が出てくる問題は避けられないだろう。

一貫校のメリットを否定し切るつもりはないが、まずは現状の中学校が抱える諸問題を解消・改善してから一貫校の制度化を始めるべきで、2016年にスタートしたのは時期尚早だった。

では小学校同士の統廃合ならガンガンやって良いのかというと、それも考えものだ。

自転車通学できる中学生と違い小学生は徒歩通学なので、それゆえ徒歩圏内に1校は有るのが原則であった。地方では昭和末期から急速に統廃合が進み、近年は地方でなくとも統廃合が加速している結果、学区が広大になりすぎる問題が起きた。

もちろんそうした地域はスクールバスを出すようになっている。だが、スクールバスが低学年しか対応しておらず高学年は長距離歩かされたり、全学年スクールバス出す場合でも下校時の発車時刻が遅すぎて児童が夕方自由に使える時間が無いなど問題が多い。

私の地元では小学校が今春(2021年)一つ廃校になったが、統合先の小学校の日課を工夫してスクールバスが設定された。統合先の学校は6校時まで行った場合従来15時40分に放課で完全下校が16時であった。スクールバスもその16時で出すことになっていたが、帰宅が16時30分頃になる児童の安全性に問題があり修正された。

今春の統合の際に日課が繰り上がり15時25分放課になった。徒歩組はそこで解散で15時40分完全下校。スクールバスは15時45分に。これにより下校時の安全性は一応は向上した。それでも16時までに帰宅できない児童が沢山居るのでまだ良くないが、改善はされたとしてもいいだろう。世の中には日課そのままで統廃合してスクールバスの時刻の遅さが問題になっている地域が沢山あるだろうし。

 

こうした観点から、学校が無くなるというのは子供にとっては環境の変化と通学負担の増加というダブルの重みをもたらすものであり、小学校が廃校になるとその周辺は一気に衰退するというのも頷ける。新しくその地で子育てしようとはならないだろう。学校は遠いし。地域の核となる存在も無いし。

 

少子化高齢化慢性不況コロナ不況。それが絡み合っているのが今の2021年の日本だし泥沼化している。

税金ばかり上がり賃金上がらないなら自分のことで精一杯だし、子作り以前に結婚すら難しい。結婚しても、将来不安があるなら、そもそもそんな希望を持てない時代に子供が居るのは自分にとっても子供にとってもリスクだと考える人もいるし、リスクと考えなくとも、単純に「そんな世の中で生きさせられる子供が不憫だ。だから産まない」となるケースもある。そうして少子化が更に進み不況と少子化の悪循環から抜け出せない。「上がるのは給料じゃなくて税金ばかり。そのうえ学校が減って子供は朝早く登校し夕方遅く帰宅という重負荷の生活する羽目になるかもしれない」そんな状況で子供が増えろというのも無理がある。待機児童対策で保育園増やすだのも大事かもしれないけれど、そもそも根源的なものにも目を向けてもらいたい。

今現在貧しい若年層が多くて、日本全体として将来的にも若年層の生活が底上げされにくい見通しなら、子供どころではない。ましてや学校まで統廃合が自治体の長期計画で示されるような世にあっては。

 

コロナが終わった後何が待っているか誰も読む事はできない。

だから我々全てが貧困や格差や少子化を自分事として考えるべき時期に来ている。

そうしないと日本に未来は無いだろう。

 

ブログが好きな理由

かつて、ネット上の一般人の発信といえば個人サイトやブログが主流であった。

しかし2010年代に入ってからはTwitterや各種SNSYoutube、最近ではInstagramなどが人気がある。

かく言う私も、mixiFacebookには御世話になっている(Twitterは一時期やっていたがやめてしまった)。

 

ただ、個人的な意見や見解を述べる場としては、ブログが好きだ。

何故ならTwitterSNSは短文での発信が基本であり、中身を詰めたようなことを書くにはあまり向いていない(できないわけではないが、あまり適さない)。

また、SNSではその性質上、他者からの共感を得られるかどうか気にしてしまう。私はそうではなく比較的好き勝手に発言しているが、全く気にしていないわけではないし、大多数のSNS利用者は他者からの共感を意識しながら使っているだろう(Socialというだけある)。

 

ところがブログは他者との繋がりよりも、発信者の個性や主張性といったものが大事である(と私は思う)。

ゆえに、言いたいことや考えたことを載せる場としては使いやすい。

それならTwitterだって同じだろうが、Twitterは短文形式なので中身を詰めにくい(その分手軽さが魅力だが)し短文なのであまり考えず投稿している人も多いように見受けられる。

私は何か意見を述べるときは軸がぶれないように考えてから、というタイプなので練り込みを自然と意識しやすいブログの方が魅力を感じる。

ブラック企業対策の重要性

近年「ブラック企業」が社会的に大問題となっている。

ブラック企業が何たるかは、かなり多くの人が書籍でもインターネット上でも書いているので、ここでの説明は割愛する(読者の方には検索エンジンで調べていただきたい)。

 

私がここで言及するのは「何故ブラック企業対策が必要なのか」である。

以下の三点を挙げておきたい。

 

1、労働者の疲弊と消費の鈍化

2、行政の出動と財政

3、2045年問題

 

他にもあるだろうが、ざっと思い付くものを挙げたので一つ一つ述べる。

 

1、労働者の疲弊と消費の鈍化

 

ブラック企業の問題点の最大のものは労働者の疲弊であろう。

そもそも労働生産性を上げようとして安価で酷使しているはずだが、人間の背負える負荷には限界がある。その結果最終的には労働者は疲弊してその会社での生産性が落ちるか、最悪解雇や退職によって生計手段を失う。

労働者は消費者でもある。

労働者が仕事に見合わぬ低賃金だったり疲弊して退職したりすれば彼らからすれば消費に回す金などロクに無い。

そして世の中に金が回らず内需は冷え込みデフレになっていく。

 

2、行政の出動と財政

 

1で述べたようにブラック企業は労働者を疲弊させる。

そしてブラック企業から逃れられた労働者の行く先はどうなのかというと、これまた茨の道であることが多い。彼らは肉体的にも精神的にも相当磨り減っているのだ。次の会社への転職どころではなく、比較的長期にわたり無業者になるのも珍しくはない。また、ブラック企業がトラウマとなり働くこと自体が嫌になる人までいる。つまり、とある会社からだけでなく労働市場自体から退出する危険性がある。

とはいえ生きるためには金が無ければいけない。

失業保険が貰えないような人は行政による生活保護を貰っていたりする。

今の日本では少子高齢化や1991年以降の経済停滞により財政が年々厳しさを増している。

こうした中で失業者や自発的失業者を行政によって十分に包摂する余裕などあるのだろうか?

 

3、2045年問題

 

2010年代に入り、AI(Artificial Intelligence=人工知能)の発達は加速している。

銀行業務のワトソンやプロ棋士に勝ったAlphaGoは衝撃的なものであった。

そこで多くの人が思ったのではないか。「我々の仕事が無くなるのではないか」と。

 

あくまで私の予想であるが、人々の仕事を大量に奪うほどAIやAI搭載ロボットが普及するならそれらの機器を作る仕事やメンテナンスの仕事が大量に生まれるだろう(つまりAI自体が自動車産業なみに裾野が広い一大産業になる)しAIによって仕事が効率化し他の仕事が出来るようになるため人間の仕事は然程減らないだろう。

AIロボットをAIが作るのは相当高度なことでありそこまでの年月は相当かかる上、その技術が実用化してもかなり高価であることから導入は数十年後になると見てもおかしくないはずだ(その頃には日本の人口はかなり減っているから人間の仕事が減っても大丈夫)。

また、普及するということは特別な技術者でないような普通の人も機器を直したりできるほどシンプルにならなければいけないだろうということだ(これが単純労働に毛が生えたレベルのメンテナンス作業者の雇用を生むと考えた理由)。特別な技術者やプログラマしかロボットやAI機器の中身をいじれないならそもそもあまり普及しないし雇用を大量に奪うほどにはならない。

未来のことは分からないし今私の述べたことも後で「間違いだった」となるかもしれないが、それはそれでAIによる雇用の侵食を重く見た政府がAI利用の制限を企業に課す法律や人件費の割合を一定割合以上にせよと義務付ける法律を作るかもしれない(大量の失業者は財政を圧迫するため)。

 

ただ、最悪のパターンを考えねばならない。

企業や政府が何も対策をとらなければ(つまり今のシステムの延長線なら)日本では近い将来に49%の仕事が無くなるとの懸念がある。

また、全世界的に見れば、これまた何も対策をとらなければ2045年頃にAIが全人類の知能を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)を迎えるとされ、そうなると人間はAIを制御できなくなる(人間の仕事は消滅する)。

 

これは大変なことである。

2045年まではAI機器を大量に保持できる資本家に富が集中し労働者(ホワイトカラーブルーカラー問わず)は貧しくなるし、2045年以降は資本家さえも食い扶持がなくなる。

ベーシックインカム(BI)はAI先進地域である欧米で真剣に議論されているが総失業時代をこれから迎えるのであればBIを支える税金は何処から入ってくるのだろうか(資本家が払う税金だけでは到底賄えないし資本家自体も2045年にはモノを売る相手がいなくなるなら破産してしまうだろう)。

 

悲観的展望を書いたが、世界も日本もそこまでバカではないので、数年単位で何らかの規制を打つだろう(労働者は消費者でもあるのだから)。

しかし人間の労働者に求められるスキルが高度化するのはほぼ確定だ。これまでだって労働者に求められるスキルがかなり上がってきた(所謂コミュ障と呼ばれている人々が就職しにくかったり失業しやすくなっていることからもわかるだろう)。しかし人間はAIとは違うので数年単位で劇的に進化するわけではなくスキルを皆で磨き合ってもやがて頭打ちになる。このミスマッチが未来のブラック労働リスクになる。今ブラックでなくともこれからブラックになる可能性があるのだ。

そうであれば現状のブラック企業問題を放置すれば尚更まずいのは言うまでもないだろう。

消費者の意識改革も求められる。

ブラック企業はワンマン経営者型と消費者起因型がある。

前者は社会的に許されなくなってきているし実際そうした企業では社員が集まらなくなってきているので淘汰されるだろう。

後者が問題である。ブラック企業は実は消費者の「ワガママの加速」が原因との見方がある。周りを見てほしい。居ないだろうか?コンビニや牛丼屋の店員に高いサービスを求めている人達が。価格と価値のバランスを考えるべきである。安いには安いなりの理由が本来あり、そうした店に対して過剰にサービスを求めるのは最終的には労働環境を全体的に悪くする(ブーメラン)。

ある店の客本人も、別のところでは社員側・スタッフ側なのである。そこのところは我々全員で再考する必要がある。

ちなみに私は店を利用するときはレジなどで店員に対して軽く頭を下げているし基本的には文句は言わない。店員が明らかに私より若い人であってもだ。何故なら納得してその店を使っているのに悪態つくのはおかしいと思うし、店員には気持ちよく仕事をしてもらいたいからだ。

 

 

私達全員が、未来に対して責任を持つ。

より良い未来を作るためには個々の意識を再考する必要がある。

無い袖は振れぬ

毎年10月頃は各都道府県にて最低賃金が改定される。

埼玉県では、今年は10/1に改定され、時間額820円→845円と25円の引き上げがなされた。

 

埼玉県の昼間のパートタイマーの募集時給(研修時給が設定されている事業所は研修期間終了後の基本時給)は9月までは900円程度が相場であった。

高い方は都市部やショッピングモールの店の約950~1000円、工場の約1000円、そして若干特殊な仕事の1200円前後などであり、低い方はコンビニ(最賃スレスレな職種なのは有名だろう)の約820円やホームセンターの約850円などであった。

 

それが最低賃金845円となるとどうだろう。

まだ改定されたばかりなので相場は未チェック(これから時給変わる事業所も出てくるだろうし)だが、以下のように予想する。

 

最低賃金820円時代にA社820円、B社850円、C社900円、D社950円、E社1000円だったとする。

最低賃金が845円になったことによりAはそのままでは違法化するため845円か末尾切り上げの850円。

BはAに時給が並ばれるため人集めのために時給の優位性を維持すべく870円。

CはBとの差が縮まるため920円。

Dも同様に970円。

しかしEはもともと1000円でありこれ以上上げるのはキツいため据え置き。

あくまで想定の範囲を出ないが、下が上がることにより連鎖的に上がるだろう。

ただ、Eのように元々最低賃金に対して余裕持たせてある事業所は据え置きの可能性は高い。

それでも最低賃金上げには意義がある。

 

これについては賛否があるようである。

毎年のように言われていることであるが、賛成側は「これで低所得層の所得が底上げされる」「そもそも今までが安過ぎた」であり反対側は「中小企業の負担が大変だ」「雇用が減るのではないか」といったところであろう。

 

私は賛成側の立場である、ただし条件付きで。

まず、反対側に対する反論から述べたい。

 

「中小企業の負担は」についてである。

中小企業は人件費を増やす体力の無いところが多いのも事実である。

しかし、その分行政補助を強化するのはどうだろう?

従業員の給料が増えれば一次的には所得税収、二次的には消費が増えることによって消費税収がそれぞれ増えるはずであり原資をかなり回収できるはずだ。

 

続いて「雇用が減るのではないか」についてである。

私はこれは半分杞憂であると思う。

毎年のように言われていたわけだが実際最賃上げによって雇用がダメージを受けているかというとあまりそうではなかったように見受けられた(つまり従前とほぼ変わらない雇用)。

これは人減らしを行うと従業員の労務負担が重くなりすぎるということに因るものかもしれない。

一旦人減らししても従業員の仕事がハードになって職場に不満が溜まり仕事の質も低下し已む無く元の従業員数くらいに戻すというのも珍しくはないことだ。

若しくは、他の部分でのコストダウンや商品の規格改訂(内容量減)などの企業努力か。

何れにせよ心配されたほどの結果にはなっていないのである。

今後も同じかは保証できないが、恐らく今までと似たような展開が有り得ると考える(当面は)。

ましてや消費者の意識も変わり始め、適切な価格転嫁は仕方無いと考える人が増えたため(2014年の消費増税時が分かりやすい例)賃上げに伴う価格転嫁も認められるようになる可能性は低くない。

価格転嫁が出来る(値上げした商品がちゃんと売れる)なら人件費増くらいはペイできる。

 

二点書いたが、そうであれば最賃上げの負の側面は小さくなり、むしろプラスの部分の方が大きい。

労働者は消費者・生活者でもある、ということを忘れてはならない。

仕事があるか無いかより食えるかどうか、まともな生活ができるかどうか、の方が重要である。

食えない金で雇われているのでは意味がないことは多くの人が既に知ることだ(働いていると生活保護が貰えなかったりするわけで働く以上は生活できる額がないといけない)。

 

また、「無い袖は振れぬ」だ。

賃金については企業側が「無い袖は振れぬ」というスタンスであることが慣例化しているが、それは労働者側も同様である。

借金してでも躊躇せず消費するとかならともかく、一般的な金銭感覚を持っていれば、所得に比例した消費の仕方をする。

つまり賃金を安く抑えられてしまうと生活必需品やそれに準ずるもの以外にはあまり手が伸びなくなる。

必需品も安いところで買うようになってしまう。

そしてブーメランの如く企業側に跳ね返る。

これがデフレスパイラルだ。

好循環を作るには価格転嫁を認める風潮を広めてから賃上げを行い、コスト増分を適切に価格転嫁し、そして再び賃上げという流れが考えられる。

ただし、これは特定の企業や業界に限られては意味がないものであり、社会全体で行われる必要がある。

何故なら社会全体で賃上げ&価格転嫁が行われないと歪みが生じてしまうからだ。

皆でやれば怖くない、に近い発想だが、皆でやれば価格転嫁が受け入れられやすくなる(物価が上がっても収入が増えれば大丈夫)。

人件費はワンオブゼムのコストであるため、為替変動や原価高騰などの影響を省いて単純に条件を揃えて考えてみると、賃上げによる値上げ率は賃上げ率より低くなる。

つまり実質豊かになる。

 

では原価が高騰したらどうするのか。

これについては原価高騰分以上に値上げすれば良いだろう。

原価高騰分だけの値上げだと会社の実質利益は変わらないので賃金変わらず、値上げ分だけ生活が苦しくなる。

余裕を持たせた値上げをすれば賃上げできるし、これが他社にも波及し「物価が上がったから賃上げしよう。原資はうちの会社の商品の値上げで賄おう」となれば生活は苦しくなりにくい。

 

最低賃金の話から逸れてしまったが、「無い袖は振れぬ」は立場関係なく誰もが該当するということを言いたい。

景気の好循環は切っ掛けと環境準備が必要である。

最低賃金アップはそのための手段の一つでしかないが、企業の多くが人件費に対してシビアな取り組みをしてきた(日本の非正規労働者は先進国の中では収入が最低水準)以上、底上げという意味で必要不可欠といえる。

故に私は賛成である。

勿論、上記にあるような価格転嫁を進めることの重要性を添えた上で。

 

せどり

オークションが流行っている。
これには複合的な要因があるはずである。
まず私が立てた仮説は以下の通り。

1,要らないものを捨てるより売って換金した方が良いと考える人が増えた
2,出品者が自身の不要物を売ることで他者に貢献したいと考えるようになった
3,単なる副業代わり


ざっとこんなところか。
1について考えよう。
確かに生活していれば要らないものが出てくる。どうせ捨てるなら売って金にした方が合理的だ。

2について。
これは少ないのでは。

3について。
ずばり今のオークションブームの根幹はこれであるはずだ。
とりあえず何か仕入れてきて付加価値が生まれたタイミングで高値で売る。
投機に近いものがあるかもしれない。
物価の上昇が生活を圧迫するなか、生活防衛の一環として転売に手を出す人は少なくないだろう。

しかし転売される商品の中にはコンサートのチケットが含まれるようで、ここまでくると不健全である。
そもそもコンサートのチケットは転売禁止のはずだ。
また、転売目的でチケットを大量に購入する者がいることで純粋にコンサートに行きたいファンがチケットを手に入れにくくなる現象も起きている。

今一度、チケット転売者は自身の良心に問いかけてほしい。
と同時に、庶民がオークション転売という副業(あるいは失業者の仕事?)をしなくても良いような経済情勢が望まれる。

一億総活躍社会とはいうが、所謂「テンバイヤー」が自然消滅して居なくなってこそ本当の意味で実現したと言えるだろう。
国民の自助努力だけではどうにもならないことや機会の質の差などをフォローするのも政府の役割であり、そのことについては「大きな政府」「小さな政府」という対立軸は無意味である。

2020年問題

2020年以降、大学入試制度が大きく変わる。

センター試験が廃止になるほか、面接等も取り入れられざっくりいうと人物を見る比率が高まるということだ。
こう書くと良いように見えるが、実際は様々な問題を引き起こすと思う。

まず、経済的に苦しい家庭ほど国公立大を諦めるのではないかということ。
現行の制度では頭が引っくり返るほど死ぬ気で努力すればそこそこの国公立大に入れる。
しかし新テスト移行後は本人の対策に今まで以上に時間がかかり、高校1年から予備校通いをしなければならなくなるだろう。
つまりその予算を捻出できない家庭はその時点で厳しくなるかもしれない。
結果、本意でない私立大に入り、高い学費を払うために奨学金を借り、社会人になった後に返済に苦労することになる(奨学金問題そのものは2008のリーマンショック以降元々顕在化しているが)。
また、国公立諦めて私立に流れようという考えを持つ人は多くなると思うので、私立の入試自体も倍率が上がり難しくなるだろう。
負けた人は高卒?
いやいや、そうなってはいけないだろう。


二つ目は面接によりコミュニケーション能力や様々な経験を見るようになると、所謂「堅物」みたいな人はキツいだろうなと。
勿論、社会的スキルの低い人を大学に入れたくないという気持ちも解らんでもない。
しかしそう物事はスパッと切れるものではないし、もし頭でっかちみたいな人が「要らない子」としてカテゴライズされるなら、それは小中高大、とくに大学に於ける教育の放棄ではないかと私は思う。
なぜなら、実際の教育改革があまり進んでいない(2020には間に合わないのは自明)、環境も整備されていないのに大学の入口のみ変えるということは「今できない子は要らないよ。うちの大学で育てる気もないよ。最初から器用な子が欲しいな」ということに近いからである。
日本では平成に入ってから職人が尊敬されなくなった。
海外からは日本の昔風な職人に対する評価が高いにもかかわらず、自ら捨てているようだ。
また、こういった状況なので職人のような「不器用であまり喋らない。しかし極めた仕事は誰にも負けない」というような人が社会人としてはあまり評価されず、学生時代に遊び回ってきて世渡り上手くて調子良い人(仕事はそこそこ程度)の方が評価が高くなってきているように見えて仕方がない。
コミュニケーション能力などは大切だとは思うが現状の、その偏重ぶりは目に余る。
大学新テストがそのような風潮を更に加速させないか気になるところである。


長くなったが、まとめよう。
そもそも入試制度改革は「より良く変える」ためにあるはずだが、変えたことによって上記のようなことがもし起きたら本末転倒だ。

なんのための改革か。
大学に行くことを諦めさせるための改革なら何の意味もないし悪魔の改革といえるだろう。
すべての人に挑戦するチャンスを見せる。
これこそ、真の意味で若者を活性化させると私は思うのである。